Beuys in Japan:ボイスがいた8日間@水戸芸術館

もうすでに会期を終えてしまった展覧会になるけれど『Beuys in Japan:ボイスがいた8日間』を水戸芸術館で先週観た。また、この展覧会に合わせて出版された『BEUYS IN JAPAN ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』をミュージアムショップで購入して読んだ。



実は、この展覧会へ 2 回足を運んだ。初回は何の予備知識を持たずに行ったため、何をどう観ればよいのか分からない上に、展示品の多さと映像資料の長さに圧倒されていたら時間切れになってしまった。前回の感想は以下のページ。無意味なエントリである。

このときは観賞に必要な知識が全くなかった。水戸芸術館で何かの展覧会をやっているようなので、所用のついでに観ておくか程度の気持で寄ったわけだ。展覧会の名前すら知らなかったし、実際に水戸芸術館に着いて「ヨーゼフ・ボイス」という名前を目にしたところで、誰なのか見当も付かなかった。無知を晒すとはこういうことである。

展覧会の感想

まず、2 回目の感想を書いてみよう。

1 回目のときに映像資料に価値があると感じたので、『赤坂プリンスホテルでの共同記者会見』と『東京芸術大学での学生対話集会』を最初から最後まで観ることにした。映像資料は他にも 10 本以上あり、すべて観ておきたいところだったが、どうしても時間が足りなかった。そこで、通しで観るのは先に挙げた 2 つのみに絞った。この 2 つだけでも合わせて 1 時間半はある。できることならば『ヨーゼフ・ボイスナム・ジュン・パイクによる草月会館でのアクション「コヨーテ III」リハーサル風景、本番、質疑応答』も加えたかったが、これは上映時間が 2 時間もありパスしてしまった。今思えば惜しいことをした。ボイスの「アクション」をリーハサルも質疑応答も含めて大画面で観られる機会などもうないのかもしれないのだから。

作品に対して率直な感想を述べると「よく分からない」としかいいようがない。うまく言葉で表現できない作品だ。僕はこの手のものに弱い。ボイス作という情報がなければ素通りしていまう可能性が高いものが多いと感じた。ボイスの存在がないと成り立たないだろう。ただし、ドローイングはいい。ボイスは彫刻家と呼ばれたりするが、ドローイングには惹き付けられるものがあった。黒板も含めて。神経質そうな細いラインのデッサンがあったりして、ああいう線は描けそうでなかなか描けないものだと思う。描けないというか、浮かんでこないといったほうがいいかもしれない。

2 回目のときにどうしても観ておきたかったものが『東京芸術大学での学生対話集会』の映像。どれだけ白熱した議論が繰り広げられるのか楽しみにしていた。しかし、実際には全く噛み合っていない空虚な議論だった。すでに社会活動家が本業であったボイスと芸術家になりたい芸術大学の学生とでは話が噛み合わなくても当然なのかもしれない。どの質問もつまらないものばかりで期待外れだった。なんというか、ここまで質問者のディスカッション能力が低いとは思わなかった。質問がしたいのではなくて、自分がしゃべりたいだけのように見えた。芸術家としての意見をボイスに認めてもらいたいがために、芸術の話題から離れることができないような雰囲気であった。

映像で見たボイスは力強い。迷いや葛藤というものが見えてこない。学生からの的外れな上に挑発的な質問に辛抱強く答えていた。そのときのボイスは社会と戦う活動家だったわけで、ディベートにおいて自分の主義主張を貫き通すことなど簡単なことだったに違いない。

一方、質問者をはじめ学生たちは社会と戦っていない。これでは実りある議論に発展するはずもない。

具体性の欠けた空論が続いているなと感じた。手元のメモ帳にはいくつも「空論」という文字が並んでいる。

質疑の内容はともかく、その時代の空気を感じることができてよかった。芸術界の「カリスマ」かつ「スーパースター」が、極東である日本の芸術大学の体育館で体育座りをした学生たちと話し合う光景なんてものは、現代ではもうないだろうし。

『BEUYS IN JAPAN ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』について

次に、『BEUYS IN JAPAN ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』を読んだ感想を書いておく。

BEUYS IN JAPAN ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命

BEUYS IN JAPAN ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命

この本で読むべき部分は、ボイスの来日に関わったスタッフのインタビューだろう。当事者が率直に語るボイス像はすべて正しいように思えてしまう。ボイスに対して感じていたもやもやとしたものが消えていった。また、ボイスと一緒に活動をした方のインタビューも押さえておくところ。側にいた人じゃないと分からない部分が多すぎる。僕は、来日時に通訳を担当した三島憲一さんのインタビューがいいと思う。芸術家からの視点ではないというところがいい。

これらのインタビュー以外の論説文はイマイチ。ボイスの名を借りて自分の説を述べているにすぎない。ボイスを神格化し自分の意見に説得力を持たせるような言い回しはよくない。

シュタイナーとの類似性

展示会場に入ってすぐにボイスとシュタイナーの関係が気になった。僕はオカルティズムに興味を持っていて、少しはシュタイナーについて知識がある。会場の壁のところどころに記してあるボイスの言葉を読んでいると、ボイスとシュタイナーの美学が似ていると感じた。いまさらシュタイナーの著作を読み返している余裕はないので、やや古めの本になる荒俣宏鎌田東二による『神秘学カタログ』(河出書房新社、1987) を開いてみた。すると、「シュタイナーと人智学」という節に面白い記述を見つけた。すぐには理解できないかもしれないが、引用しておく。

問題は、こうした超常的感覚を持たない物の数の上における圧倒的優位が、少数の例外者の情報とそれに基づく世界認識を退けてきたという点にある。またこれまでにそうした少数者の側が多数者と対等の論理と言語で対話する能力に欠けていたという点にもある。こうした観点からみても、超常的感覚に優れ、かつ知性や言語表現能力にも優れるというシュタイナーのような例は、歴史上稀であったといえよう。

シュタイナーの思想は、超感覚的知覚の存在を前提としている点を補足しておく。この引用文はボイスにも当てはまるのではないかと思う。さすがに「超常的感覚」はあまりに非科学的であり受け入れ難い表現だと思うが、あくまでも科学の範囲内における「超人的感覚」と置き換えてみると納得してもらえるのではないか。ボイスが対話を重視してきた理由はここらへんだろう。もちろん言葉だけではない、作品を通した対話も含まれる。

疑問

ボイスがどういう経緯でデュッセドルフ芸術アカデミーの教授になれたのかである。これはアカデミックな世界で認められた事実で、ボイスを語る上でこの肩書は重要な点だ。しかし、何が認められたのか分からない。『BEUYS IN JAPAN ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』の巻末に関連用語集を見たところ、いわゆるパトロンはいたようである。

どうでもいいまとめ

現代アートを言葉で定義するのは意味のないことだと思うし、それ以前に僕は素人なわけだけど、現代アートというのは「新しい視点」のことを指すのだと思っている。確かにこれは曖昧な表現だ。しかし、現代アートから得られる知は既存の言語では表現しにくいものなのだから仕方がない。なにしろ新しい視点であり視界が異なるからだ。世界の広がりが違う。

このような知を非言語的な知、もしくは「暗黙の知」と呼ぶ人もいる。ボイスの作品は、この暗黙の知に属しているのだと思う。言語化しにくいため、無理矢理言葉で表そうとすると比喩を多用することになり、誤解を生みやすい。

無意識下に溜め込んだ暗黙の知から新しい視点が生まれるのだろう。これを創造といってもいいはずだ。ボイスの作品は、僕の人生にじんわりと効いてくる。いや、ある日突然何らかのタイミングで飛び出てくるのかもしれない。ともかく、「美しい」とか「綺麗」といった即効性のある知が得られる作品ではない。

遠藤一郎ほふく前進

積極的な活動をされている遠藤一郎さん。もっとストイックな感じでほふく前進してたら現実感があってよかったんじゃないかな。あと、「元自衛隊員」みたいなギミックがあると面白かったかも。